「9条全国行脚の旅へ」

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問わず語り・9条行脚

時は2005年、がんで入院した。私はそこで考えた。かつてこれまで自分の意思で永遠に生きたものなどいやしない。生きること死ぬことは思い通りにならないな。どこのどなたか知らないけれど、あずけたよ。「あずかったぞ」、突然に声が響いた。でもその声がどこから来るのかわからない。おかしいな。確かに聞こえてきたんだけどな。

 次の朝、私は思った。確かに命はあずけたけれど、今日もこうして生きている。そうじゃないな。あずけたんだから生かされてるんだな。では一体、なんのために生かされている。この世のつながりの中で生かされている。この世のために何かやれと生かされている。でもそれはどんなことをすることなのか。

 まわりを見ると暗く沈んだ患者が多い。心から明るくなれたなら、免疫力も向上し抵抗力も増すはずだ。患者会が必要だな。

 やがて私は退院し、ふるさとに患者会支部を立ち上げた。私は思った。患者会を続けていれば、メンバーのがん再発に出会うかも。

 私はカウンセリング・スクールの聴講を決めた。とりあえず善悪の判断は置いといて、相手の話を聞くのがカウンセリング。誰でもが答えを引き出す力を持っていると信じながら。私は過去を振り返った。数年前に町会議員をしていたころ、私にとって言葉とは武器だった。逃げ道をふさいだ上で論敵を追いつめることもやっていた。直接の暴力ではない。だから私は暴力的ではないと思ってた。しかし言葉すら武器にしてたのが私の姿。

 町会議員をしてた時、ゴルフ場の開発計画に反対した。物見遊山の海外派遣を追及した。田舎町、集まりがあれば、かつての敵と顔があう。その人に微笑んでみよう。カウンセリングの修行になるな。その中に話しかけてくれる人があらわれた。変わったのはどうも相手じゃなさそうだ。だとすると変化したのは私か。

 隣国に制裁と叫んで対話を呼びかける我日本。仮想敵国と想定したとき我国はすでに相手の敵となってる。意見の違いがあることが敵ではない。きっといつかは、わかりあえる。対話はできる。そうでないと平和はこない。

 時は過ぎ、私は総理大臣の言葉を聞いた。「憲法を変えることを公約する」。私は思った。このままだと我国が戦争をする国になる。何かしないと。そのうちにどこからか声が聞こえた。「旗と伴に歩きなさい」。これは何を意味するのかと私は思った。しばらくすると第9条の旗と伴に歩いている私の姿が心に浮かんだ。私は知人に打ち明けた。「9条の旗と伴に歩いて日本を縦断しようと思うんだ」。知人は集会の中、私にマイクを握らせた。『歩いて日本を縦断します』といいきった。いいときに肩を押していただいた。ありがとう。それから私は患者仲間の登山家に相談した。すると彼はリュックサックを私にくれた。このリュック使わずに終われないな。

行脚をするなら最低でも憲法の前文と9条くらいは暗記しよう。繰り返し繰り返し声に出して読み続けた。まるでお経だな。そう9条は私のお経。文章は黙読して理解できれば、それでいいと思ってた。でも本当はわかってなんかいなかった。声に出し、繰り返してると深いところに落ちてくる。

旅先で交流会ができるなら、ほかに何かできないか。荷になるものはやめとこう。1人芝居をつくってみるか。殺すこと、赦すこと、気づくこと、戦中戦後をつなぐこと、そんなことを込めてみた。そして「旅立ち」が書きあがった。

道中のスタイルはどうしよう。9条行脚の目的は9条を知ってもらうこと、考えてもらうこと。修行者ほどに偉くない。愚かな行為の贖罪を背負ってるほうがむしろいい。そんなとき、ねずみ男のイメージが心に浮かぶ。ねずみ男は嘘をつく。しばしば人を裏切るし、いつもお金に目がくらむ。だけれども、ねずみ男は鬼太郎と違い、髪の毛針や、ちゃんちゃんこや、下駄などの致命的な武器はもってない。そのせいか人殺しという大罪は犯していない。もし仮にねずみ男が権力をもち、悪の枢軸と敵を呼び、劣化ウラン弾やクラスター爆弾が使えたら、きっとそれがイラク戦争。利権のため戦争を起こす大統領、それを支選んだ国民も、みんなみんなねずみ男。バブルに踊って一億がばくち打ちに成り果てた国民も、格差をつくった元総理、それを支持した国民もねずみ男。愚かだな。でもそんな愚か者が60年以上にわたって戦闘行為で外国人を殺していない。9条に守られている。愚か者が大きな罪を犯すことから。人は容易に変わらない。これからも9条に守ってもらおうよ。

旅先で難しいことを聞かれたらどうしよう。国際情勢や法律論議は評論家や学者たちにまかせよう。平和というとたいていは、我々の安全のための平和だな。平和とは殺されないこと。ちょっと待て、殺さないことが大事じゃないか。誰だって殺されたくはないけれど、殺されることは罪じゃない。でも殺すことは罪だろう。

世界史をめくってみれば、戦争は外国からの防衛を口実にして起こされる。軍隊は殺しのための集団だ。さらにまた人を殺せる人格に洗脳をする集団だ。

ねずみ男は愚か者。洗脳に耐えることなどできゃしない。洗脳されず、人を殺さず、生きていくには軍隊をなくす以外に道はない。もっと自分を見つめてみれば、我々は鬼太郎ではないと気づくはず。軍隊をもてるほどには賢くない。殺さないこと、それでいい。

知りあいの三次の僧侶はカンパ口座をつくってくれた。知りあいのジャズピアニストはインターネットのブログをつくってくれた。9条の旗も地元の仲間がつくってくれた。ありがとう。

私はスイッチ一つで遮断ができるコミュニケーションは嫌いだ。手の届くところで話すほうがいい。でも殴りあいはしないこと。そんな私がブログをもった。ブログがあれば、多くの人とつながれる。旅先の交流会のチャンスも増える。でも私にはのろしのほうが似あってる。どうしよう。

初めはたまに更新してた。沖縄の旅を終えたとき、「心配だから更新は毎日しろ」と言われた。それからはなるべくそうした。でもブログもコミュニケーション。報告だけでいいのだろうか。ある時に、旅立ちたくてもできない人、そんな人もいることを知った。

1人だけの旅じゃない。支援者や戦争犠牲者、みんなと伴に歩いてる。報告だけではいけないな。感じたこと、揺さぶられたことも伝えなくては。この旅は一つの世界。ブログだって一つの世界。

旅を始める前、「おきなわで不用意に野宿をすると死にますよ」と教えられた。沖縄にはハブがいる。そのハブと野宿することが結びついていなかった。教えてくれてありがとう。あっはっは。

そして那覇空港へ下り立った。那覇市では法華経寺でお世話になった。居心地いい。ここでは「ねずみさん」とか「ねずみ男さん」とか呼ばれる。それで支障はないんだな。初めて出会った人ばかり。ここでは違う自分になっている。どちらが本物。そうじゃない。いろんな自分を勝手に自分と思ってるだけなんだ。

空港を出て法華経寺へと歩いていると、自転車に乗った男性から呼び止められた。「テレビで見たよ」。那覇空港で取材を受けていた。『激戦地だった沖縄ががんばらないといけないのに』とその男性。自転車を押し私にあわせて歩いてくれた。ありがとう。

宮古島では「ちょっと待ってくれ」と若い男に呼び止められ、近くの事務所のイスに座った。「もし隣人がお前の土地にゴミを捨て続けいつまでも止めなかったら、どうするんだ」と問われた。「そんなときには、当然けんかするだろう」と言いたいようだ。「対応はする。でも暴力は使わない」と答える。出身地を聞かれたので、「広島県」と言うと、「狭道会があるな」。暴力団に詳しいようだ。でもお茶をいただきながら話つづけた。彼らの思いは変わらなかったが、帰りぎわお菓子をもらった。平和について話ができた。そのことに感謝だな。

憲法第9条と書かれた旗に賛成も反対も書かれていない。9条について話すことが大切。話していれば9条のよさはわかってもらえる、と思ってる。人は言葉が使える。でも人は話しつくさず、戦いを始めてしまう。こんなのが霊長なのか。互いの意見は違っても対話ができるこが平和への第一歩。ありがとう。

そのころは沖縄の集団自決の問題が起こってた。那覇市の退職教員9条の会に呼ばれたとき、「私も軍の強制はあったと思う。でも沖縄を犠牲にしたヤマトの立場では、ごめんなさいから始めるしかないように思います」と始めた。

沖縄北部は自然海岸が美しい。移り変わる景色がすばらしい。気がつくとずいぶんと移動している。

こども劇場の例会で1人芝居を上演した。終わったあとで、カンパ袋が回された。1人だけで芸をしてお金をもらったのは初めてだ。こんな私もありえたんだな。

広島から阿蘇までは平和巡礼に参加した。いろんな人と語りあった。仏師もベトナムからの帰還兵もお坊さんもいた。

米軍基地前や原発予定地でお題目を唱える。南無明法蓮華経、南無妙法蓮華経。なぜだろう考える。軍事基地には反対だけど、軍隊の必要のない平和のために祈るのならば、誰のためにも祈れるな。納得だ。

朝には祈りの時間がある。それぞれの宗派で祈りをささげる。般若心経あり、カトリックあり。山口県のキリスト教会で憲法の前文と9条を暗唱した。そういえば、祈りの言葉に似ているな。「祈って何がかわるか」と思ってた。でも祈ってると自分が変わる。視界の外の目標でも、遠い遠い地平に向かって歩いていけるようになる。

残った九州の南半分を一人歩いた。漁港でも野宿した。早朝からエンジン音や人の声が響いた。目覚まし時計は不要だな。佐多岬は九州最南端の岬。でも食堂はなかった。かつて賑わった食堂の廃墟ならあったけど。猿の群れが道路に出てきて休んでた。

鹿児島市内の公園で野宿した。スケートボードのカタンカタンを聞きながら眠りに落ちた。

翌日は3号線を北に向かった。車を停めてカンパをもらった老夫婦。去っていく車の後ろには9条の会のステッカー。やっぱりね。川向こうから両手を振ってくれている人。たくさんの車の音で、声は聞こえない。でもわかる、「がんばれ」とさけんでる。新聞社の取材を受けて全県版に掲載された。そのせいだな。立派な乗用車の窓を開け、「共産党」と叫んで通り過ぎた若い男。私は別に共産主義に偏見はないが、短絡的な人だなあ。

峠を越えると軽自動車が近くに停まり、旅の目的をきかれる。「この旗と伴に北海道まで歩きます」。「今夜はうちに泊まりなさい」といっていただく。とても素直に「ありがとうございます」といっている。昔のままの私なら何度も何度も「ご迷惑をおかけしては」といってただろう。不思議だな。いまこのように言ってる私。よくもまあ、こんな不気味な姿の男に「泊まりなさい」といえたもんだな。夕食をいただきながら話を聞くと車に寝ながら旅をしたことがあるそうだ。4日ぶりに風呂へも入れた。ありがとう。

遠慮していたと書いたけど、でもそれは遠慮じゃなくて不信感じゃないかな。きっと以前には私はまわり中、敵の中に住んでいた。初めての土地に踏み込むときは、きっと敵を恐れてた。今の私は仲間がいると思っている。

水俣でも泊めていただいた。9条には関心のない人だった。「何もないけど」と誘われた。「雨風がしのげるだけで十分です」。確かに古いアパートだった。隣人を呼び、ささやかな宴。楽しい会話。翌日に「もう一日泊まって行け」と言われた。「先がありますから」と私。後で出した年賀状が帰ってきた。あの人は今どこにいるのだろう。

一路熊本へ。車が停まり、熊本で開催されるBe Good Café への参加を勧められた。ヨガ、フラダンス、座談会。「懐かしい未来」という映画。インド北部、急激に近代化した地域。以前なら貧しいけれど助け合って暮らしてた。飢えた人はいなかった。今は商品があふれ、情報も多い。だが飢えた人や孤児がいる。近代化は進歩だと思われてきた。でもそれは魂の堕落に過ぎないのかも。このイベントのスタッフは新たな農業者や学生たち。金持ちや政治家ではなく、この人たちに未来がかかっていると思われた。その後で獣医さんのうちに泊めてもらう。家族の前で一人芝居。翌日は彼の仕事の見学。厳しい畜産の現状に触れた。

九州を歩きながら、ふと思う。苦しい時もある。はっとしたこともある。でも、「もうイヤだ。早く帰りたい」とは思わなかった。そこそこ旅を楽しんでいる。一人旅になじんだのかな。もしかすると風来坊が私の本質。もしそうだったら楽でいい。いや待てよ。だとすれば今までの私とは何だったんだ。与えられた役柄にしがみついてただけなのか。空は晴れ、吹く風も心地いい。一体私はどこを歩いているのだろう。

広島から東へ向かって再出発。原爆ドームを背景にシャッターを押してもらった。その人は牧師さんで「旭川に来たらよってくれ」といっていただいた。「しめしめ北海道で宿泊地を確保したぞ」と喜んだ。北海道は旭川を通ろう。後に旭川に近づいて電話をかけた。彼は函館へ配置換えになっていた。旭川では道の駅を宿とした。

20くらい年前かな。中国から500人の青年が来日したとき、交流会で知り合った人が呉にいる。その方の空手道場で交流会をしてもらった。中国青年を送る会の挨拶で私は「加害責任を引き継ぐ」といった。戦争放棄は加害への贖罪の意味もある。そうだったんだ、行脚を始めなければ、嘘つきになるところだった。

岡山では国道バイパスを歩いた。4斜線の道路、車も通れる広い歩道。横断歩道も信号機もなくて、容易に道を渡れない。歩行者にはやさしくないな。どうりで歩行者に出会わない。歩いているのはバカ一人。お金をかけて人の歩かない歩道をつくる。これが今の日本だな。

兵庫では鋭い声で「ちょい待ち」と呼び止められた。「9条の旗に文句でもあるのかな」でもそのおばさん、バッグを開けてカンパをくれた。ありがとう。

伊丹では友人宅にやっかいになる。その友人、「雑種の犬が欲しいけど、近くでは見つからない」といっていた。上下町の配達先で見かけた雑種の子犬、もらい手を捜してた。ずいぶんと大きくなっていた。ちょっとだけ、気が弱そうだな。

長岡京から旅を再開。事情により夜に到着。キリスト教会を見つけ軒を借りたいとお願いした。「自分らが中で寝て、人を外で寝かせられない」といったり、電話をかけて相談したり、長時間待たされた。挙句の果ては「このような危険な旅は9条にはそぐわない」と、叱られた。「ごめんなさい」といって去った。早く断ってくれればいいのに。その夜は運送会社の車庫の軒を貸していただいた。勝手にだけど。

京都市を通り過ぎた。名所は多い。でも私は行脚の身。観光している余裕はない。市外を抜けてトンネルの前、渋滞していた。自動車の窓が開き、「がんばれ」とカンパをいただいた。がんばります。

国道を進みながら、琵琶湖が見えた。大津では知り合いの新聞記者に泊めてもらった。彼がかつて府中支局にいたときは若い記者だった。

今は支局長。時は流れた。

雨が降ったり止んだりのときもある。傘を出したり、しまったり、リュックサックにカバーをかけたり、はずしたり、面倒くさい。手がふさがれて地図が開けない。道を間違えたこともある。野宿もしにくい。日も暮れて道の駅があらわれた。これで今夜も雨がしのげる。感謝。

気温が36度。国道上はもっと暑い。さすがに出会う歩行者はいない。人の日干しができそうだ。昼食はいつもならコンビにか何かで食べ物を買って、外で食べる。でも今日は外にいるだけで消耗する。昼が過ぎても飲食店が見つかるまで歩き続けた。

岐阜で泊めていただいた隣の町で、「日本の青空」という映画が上映され、9条の会の発会式もあるという。参加させていただき、旅の報告もさせていただいた。感謝。

静岡市へ向かうとき、雨も風も強かった。廃業した喫茶店の入り口の軒を拝借した。風が強まりしぶきが飛んできた。台風があることだけは知っていた。でも新聞もテレビも見ていない。今はどこにあるのかな。傘が何度も裏返る。歩道が小川になっている。靴がずぶぬれ。不思議なもので完全に濡れてしまうと気にならない。これ以上は変わらない。この天気、うらんじゃいけないな。「どなた様かわかりませんが、この度はいいご修行をさせてくださる」と思うんだ。不思議と気分が晴れてくる。静岡の市民運動の事務所に着いて、台風がこちらに向かってることを知る。「おまえが連れてきたんだろう」といわれる。そうかもね。これまではずいぶん嵐を呼んできた。でも今回は違うと思う。おかげで直撃の日の野宿は避けられた。感謝。

日が暮れて野宿場所を探しながら歩き続ける。消防署があり訓練用のやぐらがある。近くにはコンビにもある。コンビニがあるとトイレが使えて便利なのだ。ここなら野宿できるな。発泡酒を買い、地面に座り夜空を眺める。自由だな。正直言ってこれまでの人生の中で最高に自由を感じた。クーラーもない。朝から歩いて疲れている。でも自由だ。狂った社会に漬けられてると、思い通りにできること、欲しいものが手に入ることが自由だと思わされる。では自由ってなんだろう。多く持つことじゃなさそうだ。

荷物が増えると行脚はできない。道中で出会った人に食べ物をいただくこともたまにある。できるだけ早く食べてしまう。腹の中に入れたほうが軽く感じる。普通の生活では、お金があって、広い敷地をもっていて、大きな家に住んでいて、ものをたくさん持ってるほうが幸せのように思われている。歩き旅では荷物が多いと進めない。できるだけ少なくする。それでもなんとかなるもんだな。資本主義は生産手段の私的所有を認める。その中で多くの人は競争している。いやまてよ、競争をさせられている。そんな暮らしが幸せなのか。例え勝ったにしても。歩いているといろんなことが問われてくる。

急いでいたためコンビニで懐中電灯を買い、箱根峠を上った。照明灯がまばらになる。懐中電灯を買ってなかったら、進めなかったな。国道とはいえ急勾配。これはまるで登山だな。「命はひとつ」という看板が赤い光で点滅してる。おそらくは暴走族への戒めだろう。け携帯電話で写真を撮り、「身にしみてます」と言葉を添えて、ブログに送った。峠近くに東屋とトイレつきの駐車場があり、霧の中その東屋を宿とした。今は夜中の12時だ。

翌日に箱根峠を下った。標高700m以上あったな。下っているとバラバラと駆け上ってくる人がいる。こんな道を、大変だな。できることは外にない。「がんばってください」と声をかける。うなずく人、余裕のない人、様々だ。一人だけ9条の旗を見て笑顔を見せて「がんばれ」と返してくれた。その時何かがつながった、と感じた。

無理をしたので、まめをつぶした。痛むけどやめられはしない。止まったところでただ一人。痛みに呼びかける。痛み君、ごめんね。警告をしてくれているのはよくわかる。でもやめられない。歩き続けているうちに、痺れのために痛みが薄らぐ。信号待ちで泊まっていると、再び痛みが増してくる。そんなことの繰り返し。翌日はビーチサンダルをはいてみた。痛くない。東京まではビーチサンダルで地面を踏んだ。

歩いているとホームレスの人とすれ違う。「こんにちは」と声をかける。返事はあまり返ってこない。遮断してしまってるのかな。東京は野宿がしずらい。公的場所も私的場所も「立ち入り禁止」。可能な場所はホームレスの人がすでに寝ている。困ったなと思いながら歩いていると路地を少し入ったところに偶然に神社を見つけた。拍手を打ち、「宿をお借りしていいですか」とうかがった。「ダメだ」という返事はなかった。「ありがとうございます」と神社の軒を借りた。

東京には娘が住んでいる。娘もいっしょにジャズピアニストの河野さんに夕食に招いていただいた。家族同士のおつきあい。楽しい食事会でした。ご縁に感謝。

ガソリンスタンドで道を尋ねる。「この道でいい」という答え。その通り行くと違ってた。また尋ねる。とても親切に教えていただく。ありがとう。でもその道は田舎道。おまけにもう夜中。大変な遠回りとなってしまった。うらむんじゃないぞ。今はきっと試されてるんだ。そう思おう。

福島県の郡山では「ターラ祈りの夕べ」に参加した。郡山駅前、ろうそくの明かりの中で、沖縄の大集会のことなどが語られた。その時私は憲法の前文と9条を暗唱させていただいた。福島県ではこのほかに交流会や一人芝居も上演できた。また次の交流先も紹介していただいた。ありがとう。おかげさまで東北は全部の県に足を踏み入れた。4kmのトンネルをぬけた。猪苗代湖の横を歩いた。峠越えも多かった。でも眺めはよかった。

野宿をすると朝が早い。寝てる姿を見られたくはないからね。そのおかげで、歩きながらご来光を拝める。たとえ荷物を背負っていても、幸せだなと感じている。日の出前、空の変化が素晴らしい。東を見ながら歩いてる。朝焼けに包まれてながら。

行脚の合間、上下の町の夕暮れ時。沈む夕日が美しい。これまでだって、こんな夕日はあったはず。何かが変わった。でも何が。ふるさとがそんなに変わるわけがない。私の何かが変わったのかな。

道端にそっと置かれた花束やペットボトル。時にはお菓子も置かれてる。交通事故があったんだ。子どもだったんだな。合掌。安全のための道路整備や法改正も必要だろう。だがそれよりも車社会の見直しがいるんじゃないかな。道路を整備したら車が増えるし、地球は病む。車を減らせば事故は減る。それなのに公共交通を切り捨てる。どうも変だぞ、この国は。

10月になると夜は冷える。冬用のシュラフの準備がいるのかな。患者仲間に教えてもらって、シュラフカバーを買い足した。使ってみると効果があった。頭までもぐりこんでチャックを閉めて寝た。呼吸が激しくなって目が覚める。翌日も呼吸が激しくなる。チャックを開けると楽になる。あっ、窒息死するとこだった。旅の途上の交通事故死や熊の襲撃なら格好がつくが、落語の落ちにすらなりゃしない。あっはっは。

秋田では沖縄の法華経寺で知り合った方の実家に泊めてもらった。法華経寺の人の話をしていると携帯電話が鳴り響く。「運転免許合格しました」とちょうどその人の声。同時性というのかな。こんなことが増えてきた。ご縁の世界に住み始めたのかな。

この年は秋田で旅を中断し、来年の再開を決めた。雪の降る北海道を歩くには別の装備が必要だ。

古は、宿場町だった上下町。町並みの景観づくりを進めてる。3月にはひな祭りのイベントが開催される。上下産の牛肉と上下産のそばを使い、上下町内の製麺所で加工して、上下の飲食店で食べていただく、「地産地加工・上下ぎゅ~そば」が生まれた。関係者の私以外は生産者。私はというと、舌先三寸。期間中に二千食を完売し,好評につき追加して提供している。以前よりつながることが、うまくなった、ような気がする。

行脚では、初めて出会う人たちとつながりをつくりながら、交流会に取り組んだ。行脚をするのは9条のためで、おのれの修行のためではない。そういっていた。だけれども結果としては修行のもかも。

歩き旅にはテレビもない。本も読めない。考え出すと止められない。ふるさとで町づくりにも取り組んだ。少しは成果も見えてきた。だが今の地球環境が悪化して最悪となれば、どんな成果も意味がない。関心はあるほうだと思ってた。では何をした。世界から燃料を使って食べ物が日本に来る。これだって環境破壊。よし決めた。地産地消に取り組もう。そしてぎゅ~そばの誕生だ。

行脚から帰れば再び元の生活。でも少し幸せになっている。今夜は天気を気にしなくていい。屋根の下に寝ることの幸せだ。そんなことにも感謝できる。貧乏旅もいいもんだ。

翌年の5月末日、秋田駅から行脚を再開。実を言うと、今の気分は再開ではない。一人旅に帰ってきたのだ。私の中で風来坊が覚醒したのだ。いいのかな。いいも悪いもありゃしない。風来坊は風に吹かれて行くだけだ。雨がやまない。とにかく歩いた。40km歩いたころに筋肉痛を感じた。旅を再開するなら事前に歩いて足慣らしくらいはしとくべき。でもこやつはチャランポラン。何の準備もしていない。何とか夜中にガソリンスタンドの軒を借りて宿とした。

知り合いもなく野宿の連続。大館にて車が止まり、お坊さんが呼びかける。前年の9条の会全国集会で私を見かけたそうだ。カンパをいただき、地元新聞の取材も受けた。ありがとう。

秋田県から青森県へ越えるころ、声をかけられ、温泉に連れて行っていただき、夕食もいただいた。ありがとう。

北海道へは函館行きの連絡線を利用した。船にあわせてイルカが泳ぐ。これも出会いだね。函館で新聞社の取材を受けた。このことは大きな目的。掲載されれば多くの人に知ってもらえる。もちろん9条について。午後3時取材が終わり北上再開。翌日は八雲町で交流会。できるだけ進んでおこう。暗くなったが夜も歩く。大沼のトイレつきの駐車場があらわれる。ここで野宿だな。トイレの裏なら人目につかない。だが何かあったときには、助けてはもらえない。トイレの前のナトリウム灯の元で寝た。次の日の交流会で聞いてみた。「道南はヒグマが多い」という答え。やっぱりトイレの前でよかったんだ。

翌日は雨の中を豊浦へ。長万部で野宿しようかと思ったが、まだ明るいので先へ進む。ところがその先は雨をよける軒がない。野宿もできない。しかたなく豊浦まで歩き続けた。

伊達氏の喫茶店で交流会を開いてもらった。話してるとMGユースホステルや総領町のことなど広島県の話題がでてくる。交流のため広島県に行ったこともある、という話。納得。

6月9日、余市駅前で余市九条の会と合流し、ビラを配る。毎月の九の日にやってるそうだ。確かに講演会や学習会は大切だ。だが関心のある人しか来てくれない。国民投票になったとき、9条を守るためには無関心層や改憲派にも呼びかける必要がある。街頭での行動が大切だな。行脚もそうだ。終了後、喫茶店で交流会。

札幌への道、適当に野宿していたら、人の声。新聞集配所の前だった。「ごめんなさい」と立ち退く。自動車の展示場で寝なおした。

札幌ではパレスチナのドキュメンタリ意映画を鑑賞。パレスチナ問題とは、ユダヤ人とは。課題は多い。その後、近くの店で交流会。とても話が盛り上がった。

札幌の公民館での交流会。いくつかの九条の会のメンバーがきてくださった。活発なんだな。空いた時間に北大を案内していただいた。なぜ大学を、と思ったが、行けば納得。緑の公園。

歩いていると、29キロの直線道路という看板があらわれた。そこを一人歩いている。名誉かな。でも風景が変わらない。遠くの車が止まって見える。歩くには向かないな。

旭川へ向かう道、国道は歩行禁止。わき道を行く。森の中、ベキッと枝が折れる音。慌てて走り国道の策を越えた。でもあれはエゾシカだろうな。ヒグマじゃないな。なかなかのスリルだった。

旭川では前述の通り、キリスト教会はあきらめて道の駅で野宿した。車旅のおっさんが隣で人生を語る。少々眠くはあったけど、最後まで聞く。これも出会い。ご縁だな。旭川を過ぎたころ、新聞社の取材を受けた。しばらく共に歩きながらの取材でした。素敵な記事を書いてもらった。

野宿をした日は50キロ進む。することは外になし、朝から晩まで歩くと50キロをこえる。時には疲れる。道端に寝転がる。それを見て心配されて、塩沢ビッキ資料館に招待していただいた。素晴らしい彫刻にふれ、いろいろと話もできた。ご縁に感謝。

北海道の北部に来ると、食堂も店も少ない。道沿いに家がなく、従って軒もない。雨の中、腰も下ろせず歩き続けた。おまけに野宿の敵地もない。日暮れからよく迷う。個々での熟するか。でもまだ進める。先には野宿の敵地はないかもしれない。常に迷い、常に決断。でもこれって、このほうが本来なのかも。慣れた生活では判断しなくなってるのかも。大事なことまで。そんなこを考えながら歩いていると、シェルターつき駐車場に到着した。雨はしのげる。ここで野宿だ。トイレの前で寝た。

翌日はいよいよ北端を目指す。ずっと雨が降り続く。傘をさして40キロをノンストップで歩いた。昼には新聞取材を受けるため、道を急いだ。疲れていても宗谷岬が近づくとペースが上がる。雨風の中、記念写真を女性記者に写して移もらった。

旅も終わりに近づいて、心に浮かんだことがある。この旅で多くの人にお世話になった。出会った人に泊めてもらった。出会った人にカンパをもらった。交流会を開いてもらった。それに素直に「ありがとう」を返してた。昔の私は違ってた。遠慮してたな。公害輸出の問題などで被害者支援の活動した。物見遊山の海外派遣を議会において追及した。でも自分が窮地に立ったとき、誰かに助けを求めたか。「助けて」とは言わなかった。支援はするけど、支援を受けない。遠慮だろうか。いや違う。助ける立場に立ちたくて、助けられる立場には立ちたくない。助ける立場が上だと思ってる。遠慮じゃなくて傲慢だな。「お前傲慢だな」という声がする。その声は私の声。イヤだな、そんな声を聞くのは。

旅に先立ち、ねずみ男の姿を選んだ。旅が終わって、ねずみ男を自覚した。これでいい。この旅がなかったら、気づくチャンスはなかったはずだ。

旅に先立ち、旗と伴に歩くイメージが浮かんだ。そのイメージを送ったのは誰だ。もしかして私自身。そんな意識はなかった。でももっと深いところの私かも。

この行脚、9条のためで、修行のためではないといってきた。でもあのイメージを送ったのが私の心の深層ならば、「そろそろ修行をしてみなさい」と誘っているのは私自身。目的が修行じゃないと、いえなくなるな。

旅立つ前、旅行記は書かないと決めた。書くことが頭にあると、そのときに交わす言葉が嘘になる、ように思った。「ねずみ男旅日記」なら7回寄稿している。でも焼き直しはしたくない。どうしよう。心の中に浮かんだことを問わず語りにかくしかない。そんな理由で、とりとめのない文章となり、ごめんなさい。

9条全国縦断行脚はみなさはじめ多くの方のご支援で達成できました。ありがとうございます。

でもこの「問わず語り」も旅なのかも。では一体どこを歩いているのか。どこに着くのか。